上記記事にもある通り、見えている物質の重力だけでは星は散らばってしまい、銀河を形作ることはできない。

そこでスイスの天文学者フリッツ・ツビッキーは、銀河団を互いに引き寄せる十分な質量や重力を及ぼす目に見えない物質が存在するはずであると推測した。

それがいわゆる「ダークマター」。

このように、ダークマターは宇宙の成り立ちと密接に関わっていると目されている。

近年になり、ようやくダークマターの有力な証拠を記録したが、小乗仏教の経典では、「三種色さんしゅしき」なる概念、理論が提示されている。

端的に述べると、しきとは物質的存在のことをいい、

  1. 可見有対色かけんうたいしき…目に見えて、互いに障害となるもの
  2. 不可見有対色ふかけんうたいしき…目に見えず、互いに障害となるもの
  3. 不可見無対色ふかけんむたいしき…目に見えず、互いに障害とならないもの

というものである。

  1. 可見有対色は、今、我々がいるこの3次元世界。
  2. 不可見有対色は、身近なものでいうと、「声」ということになろうか。
  3. 不可見無対色こそ、ダークマターとはいえまいか。

つまり釈尊は現代物理学よりも遥か太古の昔の小乗の教えを説いていた時点でダークマターの存在を覚知していたのかもしれない。

また、「宇宙の誕生」と称されるビッグバンの始まりは極小の点であったという。

しかしその一点に、10次元以上の世界が発生したと、理論物理学「神の数式」は主張する。

10次元以上の世界とは、いわゆる多次元宇宙、パラレルワールドのことだ。

これもまさしく「不可見無対色」。

大乗経典では「十界論」が説かれている。

「十界」とは、以下に示す通り、生命の状態、境涯を10種に分類したもので、仏法の生命観の基本となるものである。

  1. 地獄界…苦しみに縛られた最低の境涯で、「生きていること自体が苦しい」「何を見ても不幸に感じる」境涯。
  2. 餓鬼界…際限のない欲望に振り回され、そのために心が自由にならず、苦しみを生じる境涯。
  3. 畜生界…元々は獣や鳥などの動物を指す。「癡かは畜生」と説かれ、因果の道理が分からず、正邪・善悪の判断に迷い、目先の利害に従って行動してしまう境涯。
  4. 修羅界…元々は阿修羅といい、争いを好む古代インドの神の名。自分をいかにも優れたものに見せようと虚像をつくるために、表面上は人格者や善人を装い、謙虚な素振りすら見せることもあるが、内面では自分より優れたものに対する妬みと悔しさに満ちている。このように内面と外面が異なり、心に裏表があるのが修羅界の特徴。
  5. 人界…善悪を判別する力を持ち、自己のコントロールが可能になり、穏やかで平静な生命状態にあるという、人間らしさを保っている境涯。
  6. 天界…元々、古代インドにおいて、地上の人間を超えた力を持つ神々のことをいい、また、それらが住む世界という意味。努力の結果、欲望が満たされた時に感じる喜びの境涯。
  7. 声聞界…仏の教えを聞いて部分的な覚りを獲得した境涯。
  8. 縁覚界…様々な物事を縁として、独力で仏法の部分的な覚りを得た境涯。声聞界と縁覚界の2つは、仏教の中でも小乗教の修行で得られる境涯とされ、この声聞界と縁覚界をまとめて「二乗」と呼ぶ。
  9. 菩薩界…仏の覚りを得ようとして不断の努力をする衆生という意味。二乗が「自分中心」の心にとらわれて低い覚りに安住していたのに対して、菩薩界は「人のため」「法のため」という使命感を持ち、行動していく境涯。
  10. 仏界…仏が体現した尊極の境涯。「生きていること自体が幸福である」という、何ものにも侵されることのない絶対的な幸福境涯。

つまり釈尊は、『その多次元宇宙世界を名付けて地獄という』『その多次元宇宙世界を名付けて餓鬼という』…と、10次元宇宙それぞれの状態、境涯を分類、それを総称して「十界」と名付けたのではあるまいか。

現代科学・物理学では証明できないので、現段階では十界が即10次元宇宙であると断定できないだろう。

が、十界はただの教訓的比喩などではなく、多次元宇宙やパラレルワールドは実在すると、釈尊は覚知していたのではないだろうか。

同じく大乗経典では、十界が「本有ほんぬ常住」する、すなわち、ビッグバン以前から、初めからそこに有り、常にとどまり、過去・現在・未来にわたって永遠に存在し、生じたり滅したりする変化がないと説く。

我々が属する宇宙、及び、仏法の説く宇宙観の広大無辺さには驚嘆するばかりである。

日蓮は仏が持つ梵音声ぼんのんじょう相(音声が遠くまで明瞭に達し、しかも清浄で、聞く人を喜ばせるような声)を不可見で無対の色としている。

たが、上記の分類によれば、不可見だが有対の色になるはずである。

これはどういうことであるかというと、仏の梵音声相は、声には違いないが、単なる物理的な声ではなく、声教しょうぎょうである。

そこに説かれた法の内容が主体であるのだ。

それゆえ、不可見無対色とされたのであろう。