2018.10.18・11.3 中山法華経寺

中山法華経寺では毎月8日・18日・28日が鬼子母神縁日で、日蓮大聖人御親刻開眼の鬼子母神尊像が御開帳とのことで、2018.10.18(木)、参詣に向かいました。
また、11.3(土)は10月に見忘れたお堂等を参拝させていただこうと、再度、足を運びました。
中山法華経寺といえば、世界三大荒行の霊場として有名な所有名ですね。

参道を歩くと見えてくるのが総門。全体が墨塗りとなっているため、黒門とも呼ばれています。
正面中央に掛かる扁額に書かれている「如来滅後 閣浮堤内 本化菩薩 初轉法輪 法華道場」とは、「如来滅後の末法において、本化の菩薩が初めて法華経を説かれた道場である」という意味です。

掛川藩第三代藩主・太田資順(おおた すけのぶ)公の筆によるもので、裏面に「寛政五年」(1793年)の刻銘がある。市川市指定重要文化財。

いよいよ入口である三門に。「赤門」や「仁王門」とも呼ばれています。
普通は山門なのですが、「山」ではなく「三」なのは、貪瞋癡の三毒を解脱するという、仏教の教えから来ているそうです。

「正中山」の扁額は本阿弥光悦の揮毫によるもので、関東三額の一つとされる。

三門を入って右側にある堂々たるお像「立正安国を説くお祖師さま」。
見ているだけで気合が入ります。

参道に住み着いているにゃんこ😺
地元の方に伺ったところ、名前を「元気ちゃん」というそうです。
ちなみに私はネコ派。ネコまっしぐら。

祖師堂に向かう途中にある加行道場「遠壽院おんじゅいん」。
通称「荒行堂」として有名な加行道場。

鬼子母神堂
正面に掲げられている「荒行堂」の扁額は、江戸期文政2(1819)年、富山藩九代藩主・前田利幹(まえだ としつよ)公の揮毫によるもの。
行堂へ入る唯一の門である瑞門。1年のうちに開かれるのは入行と出行の二度だけ。
自行の35日が明けると、家族、檀信徒との面会が許される。

そしていよいよ中山法華経寺境内へ。ここがかの有名な大荒行堂
毎年11月1日~翌年2月10日までの100日間、毎朝2時起床、水行1日7回、食事は朝夕2度の白がゆのみで、止暇断眠・読経三昧の苦修練行が行われる。
大荒行を成満した行僧たちは、2月18日、再び遠壽院へ戻り、水行。

宗祖日蓮大聖人を奉安するお堂である祖師堂
横から見ると、屋根を二つ重ねたような比翼入母屋造りとなっているという、非常に珍しい造りが特徴です。

当初は鎌倉時代の正中2(1325)年に上棟した小規模な五間堂であったが、江戸時代中期の延宝6(1678)年に上棟され、現在の形になった。「祖師堂」の扁額は本阿弥光悦の揮毫によるもの。
横から見ると、屋根を二つ重ねたような比翼入母屋造りとなっているのが特徴で、このお堂の他に比翼入母屋造りの屋根を持つのは、全国でも岡山県にある吉備津神社本殿のみという、非常に珍しい造りで、全国唯一の仏堂。

寺務所・客殿・僧坊を兼ねる本院大客殿
廊下の奥に鬼子母神堂があります。撮影禁止のため撮影しませんでしたが、参拝当日は鬼子母神縁日で、日蓮大聖人御親刻開眼の鬼子母神尊像が御開帳。ご尊像を真近で拝することができ、感無量、感謝。

「鬼」の上の点がないのは、鬼子母神が釈尊に諭されて改心した結果、角が外れたため。

ご尊像由来

文永元(1264)年11月11日、日蓮大聖人が安房国東条郡(千葉県鴨川市)に住む門下・工藤邸へ向かう途中、地頭・東条景信の軍勢に襲撃された「小松原法難」が契機。
その際、弟子の鏡忍房、工藤吉隆を殺害され、大聖人自身も眉間を斬られ、左手を骨折するという重傷を負わされるも、鬼子母神が出現し、大聖人は一命を救われ、中山に避難。大聖人は鬼子母神さまの霊験を深く感じ、養生のかたわら、その尊像を自ら彫刻開眼されたと伝えられている。

鬼子母神とは

もともとはインド夜叉神の娘で邪神。自らにも多くの子がいたが、性格は凶暴で、人間の子どもを捕まえては食べてしまうので、恐れられていた。釈尊は過ちを正そうと、最も愛していた末子を隠したところ、鬼子母神は嘆き悲しみ、過ちを深く悟って仏教に帰依し、仏法を護り、子どもや女性を護る善神となった。妙法蓮華経陀羅尼品第二十六では、十羅刹女とともに法華経を読誦し、受持する者を守護することを誓っている。

下総国千葉郡の豪族・千葉家伝来の北辰妙見菩薩を奉安する妙見堂
正法護持・国土安穏・除災招福の守護神。

身丈3.56mと、鋳像では千葉県一を誇る釈迦大仏

千葉県では唯一の五重塔
池上本門寺に比べ、ほっそりとした外観。

江戸初期の元和8(1622)年、本阿弥光悦の甥(姉の子)の光室が、両親の菩提を弔うため、加賀藩主前田利光公の援助を受けて建立。国指定重要文化財。

宇賀神堂右脇にある階段を登った所にある、加藤清正公を祀る清正公大神祇堂

中山法華経寺の守護神である宇賀徳正神を奉安する宇賀神堂
宇賀弁財ともいわれ、財福の神として広く知られている。
堂内に置かれている案内書を拝見させていただいたところによると、「祖師堂建立に際し宇賀神が現れ、お堂を建ててくれたら中山を守護するとの託宣があり、宇賀神堂を建てた」とのこと。また、正中山法華経寺誌には、「徳川家の鬼門除けのために建立された」と紹介されています。

この宇賀徳正神と奥之院の弁財天は対になるそう。

日蓮大聖人が「初転法輪」の百日百座説法をされた宗門最古の貴重な堂宇である法華堂
中山法華経寺境内でも最も古い建築物の一つ。一尊四菩薩が安置。

正面には本阿弥光悦揮毫の「妙法花経寺」の扁額が掲げられている。国指定重要文化財。

鬼子母神、十羅刹女、大黒尊天を安置する罪障消滅の霊場・刹堂せつどう
日光東照宮の眠り猫などで有名な名工・左甚五郎の建築と伝えられています。

刹堂に住み着いているにゃんこ🐱

室町時代に鎌倉の愛染堂から移築されたと伝えられる四足門
門の前後に楕円に作られた控柱ひかえばしらが4本建てられていることに由来。
室町時代の様式による細かな装飾や、柔らかに曲線を描く「海老虹梁」という、他に例のない珍しい構造が特徴で、鎌倉から室町にかけての建築物を身近に見ることのできる貴重な場所です。

国指定重要文化財

インドの仏塔風様式で、境内の建物の中でも異彩を放つ聖教殿しょうぎょうでん
「勧心本尊抄」「立正安国論」をはじめとする日蓮大聖人の御真蹟百数十点が格護されている。

⚠️毎年11月3日の「聖教殿お風入れの儀」の際、11:00~13:30まで一般拝観できるとの立て札がありますが、寺務所のご住職に伺ったところ、「4~5年前より東日本大震災の影響で崩落の危険性があるため、国から御開扉はしないようにと言われており、今後も開く予定はない」とのことです(2018.11.3現在)

明治から昭和にかけて活躍した建築家・伊東忠太による設計。

聖教殿左脇に「瑞門」と呼ばれる荒行入行のための門かあり、いったん入ると荒行完遂まで開かない。俗界と霊界を分ける結界。

日蓮大聖人が日照りに困窮した村人を救うため、龍王池に浮かぶこの場所に八大龍王をお祀りする祭壇を作り、雨乞いの祈祷をしたと伝えられる。
近年は商売繁盛の守護神として参詣する者が多い。5月に菖蒲、6月梅雨の頃にはアジサイ、お盆の頃には蓮の花が咲く。

🐢カメさんがいっぱいいます

下総国守護千葉氏の被官・富木常忍の館跡である奥之院
「立正安国論」提出後の文応元年(1260年)、鎌倉に構えられた草庵が念仏者らに襲われた(松葉ケ谷の法難)日蓮大聖人は、富木常忍のいる下総国中山・若宮館に避難。それを契機に富木常忍は館の中に法華堂を建て、大聖人に説法を願い出たことに由来する。これが機縁で中山の太田乗明、曽谷の曽谷教信など、信者になった者も多い。
弘安5(1282)年、日蓮大聖人の入滅後、富木常忍は出家して日常と号し、法華堂を「法華寺」と改称。さらに中山の本妙寺(太田乗明公館内の持仏堂が発祥)と合寺して現在の正中山法華経寺となったという、まさに法華経寺発祥の地。

日蓮大聖人は文永元(1264)年の小松原法難の際も、この若宮に身を寄せられた。
この日常上人御廟所があることから、大荒行の入出行会には荒行僧が参詣し、読経する習わしとなっている。
日常上人像
弁財天
奥之院弁財天案内版によると、この弁財天は法華経寺の宇賀神堂に祀られている宇賀徳正神と対になるそう。